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樫(かし)は日本海軍の駆逐艦、松型駆逐艦の10番艦として藤永田造船所で建造された。艦名は桃型駆逐艦2番艦に続いて2代目。 太平洋戦争では礼号作戦に参加、戦後は復員輸送に従事、のちにアメリカに引き渡されたが解体された。 == 艦歴 == 就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海に回航され訓練に従事する。10月10日に第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)が沖縄、台湾方面に来襲して〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.13,14〕捷号作戦警戒態勢がとられ〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.14,17,20〕、10月12日から14日にかけて徳島海軍航空隊にいた第四航空戦隊、第六三四海軍航空隊の要員を移動させる任務に就く〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.18,20,21,38,39〕。11月7日、11月10日に門司を出発して昭南に向かう予定のヒ81船団に加入される〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.55〕。11月15日に「桑」「杉」「樅」「檜」とともに第五十二駆逐隊(岩上次一大佐・海兵60期)を編成〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.56〕。11月23日付で第五十二駆逐隊は第三十一戦隊(江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入された〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.59〕。 陸軍特殊船4隻とタンカー5隻、元特設水上機母艦「聖川丸」(川崎汽船、6,862トン)で構成され、空母「神鷹」などが護衛についたヒ81船団の出港は11月14日に延期され、同日朝に伊万里湾を出発する〔木俣『日本空母戦史』818ページ、駒宮, 292ページ〕。しかし、スパイに関する噂が船団中に広まるなど前途は多難であった〔木俣『日本空母戦史』819ページ〕。潜水艦出没情報により宇久島沖で待機の後〔駒宮, 292ページ〕、翌15日朝に上海沖に向かった。ところが、同日正午に陸軍特殊船「あきつ丸」(日本海運、9,186トン)がアメリカ潜水艦クイーンフィッシュ (''USS Queenfish, SS-393'') の雷撃により沈没。珍島沖で待機の後再び航行を開始するが〔駒宮, 293ページ〕、11月17日には黄海にてアメリカ潜水艦スペードフィッシュ (''USS Spadefish, SS-411'') の雷撃で「神鷹」を、ピクーダ (''USS Picuda, SS-382'') の雷撃で陸軍特殊船「摩耶山丸」(三井船舶、9,433トン)が沈没する。以後は被害なくタンカーと同行し、馬公を経由して12月4日に昭南に到着した。 昭南到着後すぐさま、マニラへの緊急輸送任務に就く〔『第五艦隊戦時日誌』pp.22,23〕。マニラに到着後の12月14日に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機の空襲を受け、「杉」および「榧」とともにマニラを脱出することとなる〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.37〕。マニラ脱出後は、ひとまず南沙諸島で様子を伺う事となった。12月15日、アメリカ軍はミンドロ島に上陸を開始してミンドロ島の戦いが始まる。これを受け、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(海兵37期)は、南沙諸島に待機中の駆逐艦によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦を立案する〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.39〕。計画では「マニラへ向かう航路を取りつつカラミアン諸島を背景にサンホセに突入し、突入後はマニラに帰投する」という作戦だった〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.39,40〕。しかし、給水ポンプの復旧の見込みが立たず、速力は21ノットを出すのがやっとだった。「杉」は多号作戦での損傷が癒えておらず、「榧」も不具合を抱えていた〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.42,43,44〕。さらに、突入作戦を指揮する予定の第四十三駆逐隊司令が肺結核で倒れて入院する事態となった〔木俣, 591ページ〕。このため、突入作戦は一時棚上げとなった〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.44〕。その後、サンジャックに回航されて第二遊撃部隊(志摩清英中将・海兵39期)に合流する。 大川内中将は12月20日、第二水雷戦隊(木村昌福少将・海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう志摩中将に命令した〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.45〕。「榧」とともにタンカー「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)を護衛しつつカムラン湾に進出〔『礼号作戦戦闘詳報』pp.8〕。参加艦艇の集結を待ち、12月24日にカムラン湾を出撃して殴りこみ作戦「礼号作戦」が開始された。空襲を受けつつもサンホセに接近し、マンガリン湾に潜む4隻のリバティ船に対して、「霞」「榧」とともに魚雷を発射した〔『礼号作戦戦闘詳報』pp.68 、木俣『日本水雷戦史』601、602ページ〕。いずれの魚雷であるかは判然としないが、魚雷は貨物船ジェームズ・H・ブリーステッド (''SS James H. Breasted'') に命中して着底させた〔The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II 、木俣『日本水雷戦史』601、602ページ〕。作戦を通じ戦死者3名、負傷者6名を出したものの、大きな被害は受けなかった〔『礼号作戦戦闘詳報』pp.68,69〕。作戦からの帰途、12月28日にアメリカ潜水艦デイス (''USS Dace, SS-247'') の雷撃により沈没した給糧艦「野埼」の乗員を救助した〔木俣『日本水雷戦史』606ページ〕。12月29日11時35分、カムラン湾に帰投した〔『礼号作戦戦闘詳報』pp.64〕。 1945年(昭和20年)1月1日、サンジャックを出港して香港経由で1月7日に高雄に到着〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.8,9,28,29,31〕。1月21日、高雄で第38任務部隊艦載機の空襲を受け、3発の直撃弾により缶室、電信室、射撃装置などが損傷して戦死者21名、負傷者20名を出す〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.47,48〕。ただちに基隆への回航が命じられ、1月24日に到着した〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.48,50〕。応急修理の後2月1日に「杉」とともに出港し〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.6〕、舟山群島で南号作戦のヒ88A船団(「せりあ丸」(三菱汽船、10,238トン)、海防艦2隻)に合流して門司まで護衛を行った〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.57,58,59〕。護衛終了後の2月8日に佐世保に帰投し、佐世保海軍工廠で修理が行われた〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.18〕。修理後は呉に回航されて戦艦「大和」の護衛にあたるが、間もなく呉海軍工廠で再度の修理が行われた〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.44,45〕。その後は瀬戸内海で訓練と待機の日々を過ごし、7月28日の呉軍港空襲では至近弾により小破、そのまま呉で終戦を迎えた。10月5日除籍。 12月1日に特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事した。終了後は賠償艦として1947年(昭和22年)8月7日に佐世保でアメリカに引渡されるが、そのまま売却。10月27日から1948年(昭和23年)3月20日にかけて笠戸ドックで解体された〔田村, 149ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「樫 (松型駆逐艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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